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2009年12月26日土曜日

さすが、鉄人!

 神戸での仕事の合間に、寄っておきたかったのが、新長田の駅から商店街を抜けて、若松公園に忽然と現れる『鉄人28号』 震災の時はこの辺り一面焼け野原だったのをここまで復興させて、その象徴と言うべき姿で力こぶを空に向けて立っている。

 クリスマス前だったのでそこらに浮かんでるサンタの張りぼてと比べられそうで、足もとに寄って確かめてきたが、地元の鉄工所の人たちが4年がかりで製作したというだけあって、溶接もしっかりとしていて、厚い鉄板の音がした。

 私たちの時代のヒーローというと年が想像できてしまうが、本当は私の鉄人28号の記憶としては、保育園の時の斜めに肩に掛けるいわゆる「幼稚園バッグ」が鉄人28号の絵だったのは覚えているものの、実際に白黒テレビで映像を見ていたという記憶がない。
 ただ、つい最近、ケーブルテレビのアニメ専門チャンネルで、当時の勇姿を見ることが出来て、「なるほど、こんなストーリーだんったんだ」「正ちゃんはこんな風に動かしていたのか・・・でも、レバー一つのリモコンでよくあんないろんな動きが出来るな・・・」などと感心して見ていた。
 見ていると、このストーリーが高度経済成長期のはしりの日本の、一つの憧れというか奮い立つような熱意に後押しされた目標を子供達にも叶えさせてやろう、という作りになっていて、なんだか妙に元気が出てしまう。
 例えば、鉄人を動かせるのは正ちゃんの持つリモコンだけなのだが、そのリモコンを狙って世界中の国イギリス、フランスをはじめ先進諸国、果てはインドまで、いろんな国がスパイを送り込んで争奪戦を行う。戦後の復興からどうにか製品らしい製品を作り出せたものの、なかなか世界に相手にしてもらえないでもがいていたこの時期に、日本はこれほど高度な技術力を持っているんだ、どうだ参ったか!!と発信しているようで、何となく涙ぐましくもある。
 それにしても、子供の頃から、この寡黙な(しゃべらないか・・・)鉄人の目はちょっと怖かったが、「日本をなめんじゃないぜ!」と睨んでいるように見える。
今、この鋭い目が日本には足りないな、と感じた次第。




 

2009年12月23日水曜日

ようやく冬らしく・・・

 どうにか先週あたりから北陸にも雪が降り出し、冬らしい風景が見れるようになり、冬の味覚も身が締まってきて食べ頃になってくるのではと喜んでいる。写真は近所の川原の散歩道の桜並木。

 冬場、遠方の方に挨拶代わりによく言われるのが、「金沢は寒いでしょう?大変ですね」
そんな風に言う人には、「もしかして金沢が青森か秋田の横あたりにあると思ってませんか?」と聞いてみる。大体の方は「えっ?そうじゃないの?」という顔をして一瞬返事が出来なくなる。
確かに金沢をはじめ北陸の各地は雪が降ります。でも、気温は氷点下になることはそんなに多くはない。それに雪も水分を多く含んだ雪なので、太平洋側の冬のからっ風に比べると暖かく感じることが多い。

 そんなこの季節に、去年あたりから、家の納戸に眠っていた火鉢を取り出してきて、炭に火を付けて暖を取ることにした。温風器から流れてくる温風でも無ければ、石油ストーブの反射板から照らされる熱でもなく、火が付いているのかどうなのか、はっきり認識できないこともあるような姿だが、それなりにしっかり温めてくれているし、炭火に新しい炭を継ぎ足しながら、赤くなっていく炭をのんびり見ていると、火力以上の秘められたパワーみたいなものを感じてしまう。

今はパーソナルタイプの小型の火鉢しか持ち出してないが、これが回りに数人囲めるような大きさのものもあるので、そのうち物置から埃をはらって出してこようと思っている。

ちなみに現在の火鉢セットはご覧の通りで、炭は匂いの少ない、「おがくず」を固めた炭でパチパチはぜることもないので、静かなヤツ。そいつを、はじめの点火の時はカセット式のガス台に載せて着火させる。手袋、団扇の他に、大振りで長いちくわみたいな形の炭を、ほどよい大きさに割って分けるためのハンマーなども道具のうち。

2009年12月20日日曜日

金沢発のいろいろ

 金沢には市の運営する「金沢市民芸術村」という施設があり、以前紡績工場だった煉瓦造りの建物を保存しつつ、演劇、音楽、美術の活動をする市民のために24時間オープンしている。
 以前は子供達をそこにある演劇チームに参加させていたり、地元の劇団の芝居を観に時々出かけていたけど、最近は朝の自転車での通勤に横を通るくらいになってしまった。

 その芸術村の円筒状の火力発電所の小型みたいな形のホール「パフォーミングスクエア」で、昨日開催されたのが『VOX OF JOY』http://www.voxofjoy.com/という5人組(+新人3人)のゴスペルボーカルグループのクリスマスコンサート。もともと、ゴスペルは私の得意とするところではないジャンルで、日本人が無理矢理アメリカなまりの英語を、オーバーアクションでわめくというイメージしかなかったのだが、地元のグループが芸術村でやるというので突然思い立って出かけた。

 実際の所、私のゴスペルに対するイメージはそれほど変化はなかったものの、半分以上の時間を費やしたバックバンドのプレイには、これだけのミュージシャンがこの地方都市にもいたのか!と驚かせてくれたし、屋根の高い会場をフルに使った音響と照明、そしてステージ作りには「なかなかやるじゃないか!」唸らせるものがあった。
 あとは本体のゴスペルグループだな。なんだか、観客の層がその関係者が多いのかなと感じさせたように、このグループは生業としてフラワーアレンジメントや英語(ネイティブと表現するそうだ)の教室を持っていて、そのコマーシャルを中心としたしゃべりがやけに長かったし、田舎で活動するミュージシャンの決まり文句みたいな「ニューヨークにいた頃には・・・」というフレーズはちょっとげんなりしてきた。
ただ、永六輔+いずみたくコンビの名作『見上げてごらん夜の星を』を取り上げたのは大いに評価できる!!
コマーシャルやるなら、この時期稼ぎ時の某ハンバーガー屋と鶏の唐揚げ屋をスポンサーに引き込めば、もっとアメリカナイズされてよかったかも。
 まあ、何はともあれ地元に根付いて(だと思うが)頑張っているという点は一観客としては大いに評価できるものではあった。


 そして、もう一つの地元ネタ。
今日、新聞(もちろん地元のですが)の一面には、
「ツエーゲン JFL昇格」と出ていた。 『ツエーゲン金沢』は、地方のサーカーリーグ「北信越リーグ1部」に参加している2006年創設の地元のサッカーチームだが、そもそも、ドイツ語造語のZweigenを金沢弁の「つえーげん!(強いんだ!)」に掛けたチーム名が私には妙に引っかかる。Zweigenはツエーゲンとは読めず、ツヴァイゲンと発音する文字で、ホームページhttp://www.ishikawafc.sv.bigsite.jp/index.htmlでは
<ドイツ語で「2」を意味する“Zwei(ツヴァイ)”と「進む」を意味する“Gehen(ゲーン)”から、『チームとサポーターが共に進んでいく』の意味。>とあるが、Zweigは「枝」の意味で、zweigenという動詞になると「枝分かれする。分裂する」という意味になるのだが、誰も気がつかないのだろうか?これも誰かが教えたネイティブってヤツかな。
 まあ、これもともあれ、地元の活性化のために市民の多くの寄付で活動しているチームが、その活躍の場を広げて、何よりもチームのメンバーのやる気を起こさせてくれた嬉しい知らせではある。金沢は日本海側の町としては、伝統的にも夜の繁華街の明るさも勝っているのに、しばしば新潟より後れを取っていて、(個人的には全く必要とは考えてないが)新幹線も新潟のいちゃもんで開業時期が延びそうな状況下、ここでしっかり「わしらはつえーげん!」とわめいてほしいものだ。

2009年12月13日日曜日

竹の町

先日、尾道から広島に向かう道すがら、高速で一気に移動するのも勿体ないと、海岸線を瀬戸内の島々を眺めながらのんびり走ると、「竹原」という町に「町並み保存地区」という看板が目に付き、寄り道をしてみた。
 京都下鴨神社の荘園の町として平安時代に作られたというこのこじんまりとした港町。安芸の京都とも呼ばれているそうだが、近所の子供達がかくれんぼをしていたり、郵便配達のお兄さんが赤いバイクに跨り家々を挨拶しながら回り、白壁の倉が青空に映えていた。

 名前の通り竹の工芸品が名産のようだが、それだけではなく、街中には造り酒屋もあり、その一件がニッカウヰスキーの創業者「竹鶴政孝」の生家の竹鶴酒造。




 
竹細工の店で「はっさく皮むきへら」と「魚の鱗落とし」なるものを購入したが、はたしてどうやって使うのか・・・・




2009年12月9日水曜日

大雪の砌

 季節はもう「大雪」だというのに、まだ金沢は雪がちらつく気配がない。
生臭さが温度の絡む空気に乗ってくるという理由で、魚介類がそれほど得意ではない私にとって、冬の時期は安心して口に出来る季節なのだが、今年はなかなかそちらに頻繁に箸が延びない状況。
 それでも「R」の付く月に入ったからと、各地で牡蠣を食する。なぜか京都で伊勢湾の牡蠣をいただき、広島では瀬戸内の満干の差の大きな汐で育つ牡蠣を、そして、やっぱり私には、日本海の冬の寒さが育てる能登の牡蠣が一番美味しく感じる。ということで、牡蠣を食べに能登・中島に出かける。この旧中島町(現・七尾市中島町)は、秋の二ヶ月間、仲代達也率いる無名塾の『マクベス』が、演劇のためのホール「能登演劇堂」連日満席の中公演されたが、それが終わるとひたすら海風と静けさに包まれる町になる。そんな町の海岸沿いの道路には「かき」の幟(のぼり)が所々にはためいていて、数年前からひと冬に2~3回訪れるのが『海』というお店。牡蠣の酢の物、殻付き牡蠣の網焼き一人10個、牡蠣フライ、牡蠣の釜飯、もう一つ何か小皿があったな・・・・このコース料理で3000円なり。冬になると東京、大阪など太平洋側の人々から、「カニだカニだ、カニ食いに日本海に行こう!」などとわめかれるのだが、食べ放題!だと銘打って、去年獲れた冷凍物を、それもロシアだか北朝鮮産を、スカスカ身のものをひたすら囓ってしゃぶって高い料金を払うくらいなら、牡蠣のコースを腹一杯食べるのがよっぽど冬を感じられると思う。とりあえず、このぷりぷり感を感じてもらいたい。












ぷりぷり、といって思い出したが、言葉で表すと「ぶよぶよ」の方があたっているものが、途中に立ち寄った千里浜の「なぎさドライブウエイ」の波打ち際に大量に打ち上げられていて、車のタイヤも時折スリップするくらいだった。そのぶよぶよはエチゼンクラゲ。ニュースでは今年は大量発生して、日本海を北上し、津軽海峡を通過して太平洋側を南下しているとのことだったが、海岸見渡す限りクラゲの亡きがら、カモメも食わないこの風景を見ると 実感がわいてきた。












2009年11月23日月曜日

済州(チェジュ)島の黒豚

これまた、忘れないうちに、今年2つ目の海外の山の記録。

 11月1日に韓国・済州島のハルラ山に登った。韓国で一番標高が高く世界自然遺産尾山なので、以前から登ってみたかった山に、はるばる大邱(テグ)から取引先社長キム親子が案内役として付いてきてくれた。登山口から頂上までの標高差が1300m位だが、登山道の距離が長く、登るのに苦労する山ではなかったが、予想以上に、紅葉はもうすでにシーズンを終えようとしているような殺風景な景色が続き、それの追い打ちのように「世界遺産バンザイ!」のように木道が敷き詰められていて、誰でも来てくれアンニョンハセヨ状態で、実際にほとんどハイヒールの女性とか、百均で買ってきたのか?と思うような薄っぺらなビニールレインコート?に身を包んでいる半ズボン若者団体など、ちょっと行ってみるか・・・・といった感じの登山客が目立った。 観音寺登山口から朝8時半に登りはじめ、頂上手前、標高1100m近くのヨンジンモクという避難小屋跡地(なんでも数年前の台風で跡形もなく吹っ飛んだと解説してあるが、それなら早く作り直せ!と誰も言わないのかと不思議に思った)で気温は急激に下がり、手袋がない状態では手が動かなくなり、霧が立ちこめ、うっすらと霧の中にカラスの集団がたたずんでいた。木道階段を前に進むにつれ、風が非常に強くなり、立っていられないくらいになるが、それでも次々と百均グループがやってくる。なんだか人がわっと集まっているので、ここが恐らく頂上だろうと言うところに到着し、頂上の標識だろうと思われる木の前でそそくさと記念撮影をして、早々に降りてきた。下りは違う道をと成板岳コースを下るが、こちらも木道しっかり登山道で、だんだんつまらなくなってくる。




帰りの飛行機の時間があり、大丈夫かと心配しながら、下って、登山口到着が午後4時過ぎ。早く空港へ行かなくてはと焦る私をよそに、キム親子は管理事務所らしきところで、なにやらごそごそやっていたが、やがて一枚の紙を手に戻ってくる。それが、写真のハルラ山登山証明書。何だか、沖縄の首里城で記念コインをもらったような気分に近かった。












 とりあえずどうにか無事登って来れたのも、前日食べた名物の黒豚のおかげかも・・・・焼酎の銘柄も「ハルラ山」


2009年11月15日日曜日

ふと、目にした文字から


流れる風景の中や、膨大な文字の中に、ふと、目に止まる文字が時々あるが、今日はそんな文字をスーパーのワイン売り場で見つけた。たまたま、「今日のお薦めワイン」のコーナーにそのワインがあり、アルファベットではそれほど気にならなかったかもしれないが、カタカナで説明が書いてあったので、そのコーナーの前を通り過ぎようとした私の意識にビビっと引っかかってしまった。
「YECLA」こいつがその正体だが、説明を読むとスペインの町の名前らしい。調べてみるとありました、スペイン・バレンシアのちょっと南にある町http://www.bing.com/maps/default.aspx?q=YECLA&mkt=ja-JP#JnE9eXAuWUVDTEElN2Vzc3QuMSU3ZXBnLjEmYmI9NDAuOTA4MTY0NTY5NzM3OSU3ZTEuNTIzMDk3MDgyOTcyNTMlN2UzNy4zMjk1OTc1Mjc1NDI5JTdlLTQuNTE5MzgzMzg1Nzc3NDc=でフルボディの赤ワインの産地であるらしい。ついでにスペインワインのサイトを色々見てみたらわんさかこのYECLAが登場してきて、何だか嬉しくなり、カタカナで表示された文章が次々に出てくると、ちょっと赤面するくらい恥ずかしくなったりしてしまった。何だかこの「イエクラ」という町の市長にでもなった気分だ。にわかにスペインに行きたくなったし、スペインワインも身近に感じてきてしまった。

2009年11月8日日曜日

カントリーステップ

 ゲストとして名を連ねていた渡辺香津美のギター聞きたくて買ったコンサートのチケットだが、そもそもメインのミュージシャン「トミー・エマニュエル」という人物はどこの誰で、何を演奏するのか、名前からして繊細な感じのピアニストか?などと色々巡らせながらも、早く香津美のギターが聞きたい!という一心で出かけた大阪厚生年金会館。ついでに言えば、このホールのある一帯は大阪西区で、得意先が多い地域なので日中明るい時間にはよくうろついているが、夜の風情もかつては色街だけあってなかなか風情がある。
 さて、会場に入るなり驚いたのは、メインの彼は香津美と同じギタリストで、あの香津美も「ぶっ飛んだ!」という凄いミュージシャンだと書いてあるパンフレットを見ながら、ステージでは見たことのない若い前座のギタリストがソロで演奏する姿が。このもしゃもしゃヘアーの前座のあんちゃんがなかなかの凄腕で、あららあららと見ているうちに、今度はカウボーイハットが似合うような、消防士のユニフォームが似合うようなごっつい感じの栗色短髪ガイジンオヤジが現れ「マイドー・モウカリマッカ!」と拍手喝采の中でのたまった。えっ?ギョギョ、こいつがエマニュエルか?こいつの奥さんはエマニュエル夫人か?とおったまげてしまった!

小柄な香津美とは対照的に、大柄のトミーはちょっと小振りのアコスティックギターをこれでもか!というくらい、時にはアクロバティックな演奏をし、しっかりビートルズのスタンダードもバラードもこなしていく、これは完全に関西系の乗りだなと途中で気がつくと共に、演奏中の彼のステップが妙に気になっていった。オーストラリア人とは言えカントリー系のリズムが多いせいか、どこか懐かしさを感じると思いながら次々繰り出されるテクニックに目を見張っていたが、ハタと気がついた!これは大道芸人のステップだ!時々街角で見かける海外から出稼ぎでやってくるストリートパフォーマーで、ギターもハーモニカも体に貼り付けたドラムセットも一緒に演奏するあの芸人と同じ、あのステップというかリズム刻みだ!

このオヤジは相当苦労してこれだけのパフォーマーになったんだなと勝手に感心してしまった。

ほっと、ひと風呂・・・・

 長い出張の後は、無性に大きな風呂に入りたくなる。
出張先はよっぽどのことがない限りホテル泊になり、小さいバスタブにお湯を張る時間があればまだお情け程度でも「お湯」に浸かることが出来るが、大体は面倒になってシャワーで済ませる事が多い。その上、中国で私のこれまでの経験では、お風呂の蛇口からは、どこぞその辺のどぶ川から引いているのかと思わせるほのかな異臭の漂うお湯が出てきて、そんな中で浸かる気分には全くなれない。中国でも上海や大きな都市には日本式の温泉センターもどきが最近沢山出来てきているが、そんなところでもまっさらなお湯はいくぶん茶色に濁ったお湯で、入浴剤のタップル入った浴槽に入ってしまうし、それもどんな薬剤が入っているかわかったものじゃないので、ひとしきり体にお湯を付けたら出てきてしまう。
 さて、今回、金沢に戻って入ったのは、市内にいくつかある古くから温泉付き銭湯として営業しているお風呂の一つで、今回初めての「石引温泉」、兼六園の奥に続く小立野台地の中腹にあるこのお風呂には、サウナやぬるめの源泉の露天風呂があると聞いていたので行ってみた。

日曜のお昼過ぎだから空いているだろうと行くと、案の定、ご老体の客がちらほら、エレベーターで3階に上り、番台へ。牛乳石鹸の男風呂暖簾をくぐると、なかなかノスタルジックな脱衣所の箱が並ぶ。鍵はどの箱も壊れて付いていなくて、のんびり感が漂ってくる。服を脱いで早々にガラス戸を引いて湯気の中に入ると、まず目に付くのが黄色い「ケロリン」の風呂桶。風呂イスも桶もきちんと重ねられていて、入浴者のマナーを感じさせる。茶色い色の温泉風呂にゆっくり沈み込み、おきまりの「うぇ~い」のうなり。ぬるめの露天風呂は先客のおじさんが大の字になってお湯の出口を占領していたが、眠くなってきそうな温めのお風呂。ゆっくり浸かって外に出てみて、ガラス戸に張ってある注意書きの文字を見ると、実にほほえましいというか、ストレートな表現だというか・・・・

ついでに写真では曇ってよく見えないと思うが、蒸気サウナ(この表現もいいね)の入り口には「お子様はサウナに入らないで下さい」の文字の後に「成長のさまたげになります!」とあった。バタバタ走り回るガキなんかがいたら、そこらの知らないじいさんから張り手が飛んでくるのではと感じた。

朝の風景 蘇州・金鶏湖

 またまた、長い間ブログが手つかずの時間が続くとなかなか再開するのに気合いがいるな・・・・
などと考えているうちに、えっ?!前回は10月18日?3週間前だな。
 この3週間の間、韓国(ソウル・テグ・済州島)、中国(蘇州・上海・常州・青島)、そして東京と動き回り、だんだん自分がどこにいるのかわからなくなってしまった。
 まずはその中で一番朝の風景がきれいだった場所、蘇州の金鶏湖湖畔。

日時は10月23日朝6時過ぎ。蘇州近辺には湖が点在していて、ここも数年前までは単なる湖の荒れ果てた場所だったが、蘇州のリッチ層が湖畔の新開発区に大きな構想住宅街を作り、まだまだ開発途中。役所広司の出てくるCMで有名な不動産開発会社の大きな開発地も、散歩していたらホコリだらけの場所にあった。当然というように近くには日本のデパートをメインにしたショッピング街もできあがり、大きな観覧車もあって、夜はひたすらギラギラネオンで「これでもか!」といい感じでバブリーな感じだが、朝は湖からの霧が流れて、湖に浮かぶ島に寺院の影なんかが見えて、それなりにいい景色。

朝早いとコンビニも商店も開いて無くて、散歩帰りに道端の揚げパンやちまきを売っている屋台のおばちゃんから牛乳とヨーグルトを買って帰った。
そうそう、蘇州は金沢の姉妹都市ですが、その話題を蘇州の人間にしても、知っている人はほとんどいない、人口100万(と地元の人はいっているが果たしてカウントしてるのだろうか?)の都市。

2009年10月18日日曜日

冬はすぐそこまで 東北の三山 栗駒山


 3日目:栗駒山(1627m):前日の登山客もまばらな、冬景色の岩手山とはうって変わり、こちらは紅葉狩りの観光客でごった返していた。といっても、昨年6月の岩手・宮城内陸地震の被害で、東北道の一関側からの通行や登山も出来ず、秋田道をぐるっと西に回り、横手~十文字を経由して麓の須川温泉の土砂降りの前夜到着する。この温泉も地震被害は大きかったらしく、自慢の露天大浴場は壊れたままで、建物もどうにか改築して、この日が改築した大浴場のオープンの日だった。温泉の湯気をそこここで感じながら、色づいた山々を見ながら1周約3時間の登山コースを歩いてきた。

冬はもうそこまで 東北の三山 岩手山

 2日目 岩手山(2038m):前夜に麓にある「焼走り国際交流村」のロッジに到着し宿泊、ベランダから満天の星の空を見上げて、翌日の登山が楽しみでベッドに潜り込んだが、朝起きてみてびっくり!同じベランダから、数日前に冠雪したという頂上付近を白い色で染めた岩手山がどっしりと視界を塞ぐように目の前に聳え立っていた。7:00過ぎ、焼走り溶岩流に沿って続く登山道を進み出し、8:30-第2噴出口跡に到着、見下ろすと溶岩流がきれいな流れの広がりを黒くあらわしていた。9:30-他の登山道との合流点「ツルハシ」着、そこから進んで標高1500m付近からちらちらと雪が舞いだし、気温も急に低くなる。10:30-平笠不動避難小屋に到着する頃には、周り一面雪に覆われた樹林帯になり、11:00雪混じりの強風の頂上に到着するが、寒さの余り写真を撮っただけで早々に下山する。下山途中、周りの山々の間からうっすら日が差してきて、地上を見ると溶岩流の模様と四角く区切られた自衛隊の演習場が隣り合わせに見えて、それをまたぐように虹が架かっていた。そういえば、下山途中、演習の砲弾音が断続的に聞こえていたが、何でも前日に北の将軍様の国がまたミサイルを打ち上げたとのことを知った。往復8時間の登山、とりあえず百名山77個目。





冬はもうそこまで 東北の三山 秋田駒ヶ岳

 10月10~12日、以前登ろうと麓まで向かったものの、噴火の危険性があるとのことで入山が出来なかった岩手山をメインに、秋田駒ヶ岳、栗駒山と秋の風景を満喫してきた。
 1日目秋田駒ヶ岳(1637.4m):前夜日付が変わる少し手前に盛岡に入り、朝、快晴の空を見上げて意気揚々と雫石町を抜けて秋田県側に向かう。駒ヶ岳の情報や火山防災の展示をしてある「アルパこまくさ」から、マイカー規制のため八合目までのバスに乗るのだが、途中、田沢湖の表示が見えた頃から温泉の匂いや、所々にお湯の湯気が立ち上がるのが見え、その上「アルパこまくさ」にも露天風呂があることを知り、下山後の温泉が楽しみになる。八合目のバス停を降りたとたん、予想以上に風が冷たく、紅葉真っ盛りを期待していたのに、すでにシーズンが終わったように笹の林だけが視界に入ってくる。笹ばかりのその名も笹森山、湯森山と通ると紅葉の裾野を抱えた乳頭山が見えてきた。尾根を南下して横岳から阿弥陀池の避難小屋に到着した頃には、すぐ横にある池の水面も見えないほどの霧に囲まれ細かい雨が降ってきて、主峰の男女岳へ向かうことをあきらめ、かつて硫黄採掘鉱があったという古い登山道を下山してくる。冷えた体を乳頭温泉郷の中の一つで、小学校跡を改築したという大釜温泉の露天風呂でゆっくり温めて翌日に備えた。

2009年10月9日金曜日

秋の色 2



タネの多い果物は苦手なので、一度も食べたことはないが、鮮やか色に染まったアケビをいただいたので、写真に撮ってみた。

秋の色というと紅葉のアカや黄色が目に付くが、自然の中の色はそれだけじゃないと主張しているようにも見える。鮮やかさに感動しきり。

2009年10月6日火曜日

秋の色~尾瀬・至仏山から

10月4日 尾瀬・至仏山(2228m)に出かけた。紅葉の時期とあってごった返すのは予想していたが、国立公園の中はTDL並みの騒がしさ。戸倉のバス停から、バスに揺られて20分で登山口の鳩待峠に着く。バスと乗合タクシーがひっきりなしに到着し、地元バス会社とタクシー会社の稼ぎ時なのだろうが、上高地と同じで、排気ガスをまき散らして、何でバスやタクシーも禁止にしないのかが不思議でしょうがない。
 歩き始めてから尾瀬ヶ原方面への平坦な木道を蟻のスジのように繋がって歩く。1時間弱ですっかり観光地化した山の鼻のビジターセンターにたどり着く。ここまでが目的地の観光客やここから尾瀬ヶ原への道行く団体と離れ一気に人がいなくなる。一面の草紅葉の黄色の中に至仏山と小至仏山が立っている。前日の雨でちょっとぬかるんだ登山道を進み、2時間余りで頂上に到着。燧が岳をバックに尾瀬ヶ原の地形が褐色気味の黄色に染まっている。かすかに原っぱの中の道を人の尾列が伸びている。何となく西穂高から上高地を見下ろしたときのようで、妙にスッキリする。
これで、日本百名山76個目

2009年9月28日月曜日

夜叉が池


先日の剱岳の筋肉痛が治まってくれないので、リハビリのつもりでこれまで何度か登っている夜叉が池に行ってくる。泉鏡花の小説やそれを演劇化したものもある『夜叉が池』はここを舞台にした伝説から取っている。北陸自動車道の今庄インターで降りて、白い花が満開の蕎麦畑が時折広がる道を行くと、鳥居がゲートになっている登山口にたどり着く。川沿いを遡り、2時間弱ゆっくり登って、ぽっかりと目の前に飛び込んでくる池の姿は、異空間にいるような、それでいてほっとするような雰囲気の場所で、伝説の一つや二つあってもおかしくない。それと、気になっていたのは、以前何度か訪れたときは、湖面が一面黒と所々のオレンジ色に映るくらい「アカハライモリ」がわんさかいたが、知人の話では、いつの間にかほとんどいなくなったとのこと。それも確かめようと、池の見える場所にたどり着くと、待っていたのは「夜叉が池パトロール」と腕章を付けたボランティアの方々で、イモリを取り戻そう運動かな?などと思って渡されたパンフレットを見ると、この池は世界でここにしかいないゲンゴロウの仲間「ヤシャゲンゴロウ」の生息地だそうで、そんなすごいところだったのかとびっくりしてしまった。

モリアオガエルの木の枝に産み付けた卵から、生まれたてのオタマジャクシが池に落ちて行くのを、下でヤモリが口を開けて待っているとは聞いたことがあるが、そこにそんな貴重な希少野生動物がいたとは。池の周りには木道が設置されていて、そこから湖面には行けなくなっていたが、のぞき込むとオタマジャクシとイモリは数は少ないながら、水中をウロウロしていたが、残念ながら以前は湖面のすぐ近くまでいけたのが、今は木道より近づいてはいけないとのロープが張り巡らされていて、その希少価値の主にはお目にかかれなかった。

 








2009年9月23日水曜日

剱岳登山~点の記の余韻~ その2


 今までの経験では、小さい山小屋でも、食後のくつろぎの時間のために『談話室』とか『休憩室』があり、明日の天気の時間になるとテレビの前に人がどっと寄ってくるが、今回の早月小屋にはそのての案内もスペースもないようで、しょうがなく携帯のワンセグ画面で天気予報を見ることになった。天気予報は『必然性』の最たるものだが、夜明け前の小雨の外に出ると、小屋のオヤジさんがそれを眺めて『今日は1日中雨だな』の一言だけ。
 それでも、ここまで来たからには行くだけ行ってみよう!と、午前5時。朝食前に出発する人はお弁当、というので鮭と卵焼きのしっかり冷えた弁当を、6時半から朝食という食堂でそそくさと食べて、6時に小雨の中小屋を出発。これも今までの経験では、山小屋の朝食は4時半とか5時が多く、時には8時過ぎには頂上の眺めが見えなくなるから、との配慮で3時半に朝食の甲斐駒ヶ岳の小屋もあったくらいで、6時半だと下界の民宿と同じ。
 さて、頂上への800mの登山道、ナナカマドの葉が赤く色づく道を辿っていくと、予想以上に急な登りが続き、200mごとの標識に出会うとほっと一息つくほど疲れてきていて、時折雨や風が強く、周りの風景も見えなくなり、ひたすら霧の中、チングルマが鮮やかな赤い葉と白いふさふさの花(なのかな?)を雨粒をためて風に揺れていた。

2800m地点の尾根に出ると風が一気に冷たく雨を伴って吹いてきて、ここからは雨と冷気に濡れてた岩とクサリ場のクサリの冷たさに手がかじかんで動きが鈍くなってくる。
眼鏡にへばりついてくる雨しずくを払いながら、どうにか頂上にたどり着くと、さすがに立山からの人気のコースを登って来たらしい登山者の団体が列をなしていた。かじかむ手をポケットで温めて、「点の地」にタッチして早々に頂上を後にする。ところが、今度は登って来た雨の岩場をつたい、浮き石でよろけ、木の枝に服を引っかけて破り、いつも間にか指の数カ所から血がにじんでいて・・・・と日本三大急登より三大急降を体験することになった。
午後4時、足がマジンガーZのようにしか動かない中、どうにか登山口に戻ってくる。
 そういえば、登山道の途中で気になったことが一つ。登山道の整備と言えば木道や木の階段、時にはコンクリートや鉄板で作った階段などがあるが、どう考えても、どこかの山小屋と同じで、素人の**組の請負会社が形だけ作っているようにしか感じない。というのも、木も鉄板もコンクリートも雨が降ったら、すごく滑りやすくなり、加えて、土の部分を隠してしまうので、ちょっと雨が降っただけで登山道が川のように洪水になってしまう。こんな登山道が何本もあったら、そのうち周りの土地も植物も浸食して崩れ、集まった水は川の増水に繋がるのではないかと思う。ところが、この登山道の階段は布製のズタ袋というのかな、袋の中にその場所の土を詰め込んで、いわば土嚢にして一つ一つ積み上げていく。これなら、登山者も滑ることが極めて少なく安全だし、水を吸ってくれるので川のようになることも少ないだろうし、布製だから古くなったらそのまま土に帰っていくのではないのだろうか?そんな地道な作業をする登山道整備の方に下り道出会った。もしかしたら、この方も**組の請負かもしれないが、どうせやるならここまで考えて工事をしてもらいたいし、公共事業が少なくなっていく今後、日本の自然をしっかり見つめて、本物を目指し、転職していく土木建築業の方が増えれば、「点の地」は決して一時的な流行ではないと思った。帰宅して驚いたのは、登山靴を洗おうとしたら、いつもは靴底が固まった泥でびっしりの時が多く、特に雨の日は悲惨なものだが、あのズタ袋階段のせいか全く洗うところがないほどきれいになっていた。これもいい効果ですな。
 一つオマケ:帰りに給油のために寄ったガソリンスタンドでそこのオバさんが『点の記、行ってこられたがかね?』と聞いてきた。映画の影響で剱岳のことをそう呼ぶのかと思ったら、登山口の馬場島があの映画の多くのシーンの撮影場所だったとのことで、それだけ地元はその効果を期待していたのだろう。
おっと、大切なことを忘れていた。この剱岳で日本百名山75個目。あと4分の1だ!